リセルシアの孤児院で朝食をとり、それから迎えに来たグラーヴェの車に乗り込み、一
時間ほど走ってからだろうか。私は、見覚えのある景色から視線を外す。そして、鞄から
取り出した楽譜を眺めるふりをして時間を潰す。そんな風に目を背けても、いずれは対峙
しなければいけないとわかってはいる。けど……。
「……ファルさん? そろそろ着くみたいですよ」
リセルシアが、まるで私がそれを待ち望んでいるかのように、笑顔でそう言った。一瞬、
表情を作れなかった。その顔を見て、リセルシアは何も言わずに目を背ける。普段なら、
絶対にしないようなミスをこんなところでしてしまうとは。
「……そう。ありがとう」
かろうじてそれだけ答えると、リセルシアは、優しげな笑みを浮かべて、小さな声で大丈
夫ですよ、と言った。どうやら、緊張が原因だと思ってくれたらしい。もっとも、その半分
は間違っていなかっただろう。
「さて、それでは行くぞ」
グラーヴェは、車が止まるのと同時にそう告げた。私は極力無表情に近い笑みを浮か
べ、後部座席のドアを開ける。すると、すでに降りていたリセルシアが私に近付き小声で
囁いた。
「お先にどうぞ」
気の利いたセリフのつもりか、リセルシアは、まだあの忌々しい表情を浮かべている。
でも……それで少しは気が晴れた。一気に感情が高まったおかげで、冷静になれた。
「ありがとう」
そう答え、懐かしくて、そして嫌悪感を覚えるドアをくぐり抜けた。目につくのは汚ら
しい壁と吊された洗濯物。鼻につくのはカビと汗の匂い。私は一度だけ目を閉じて、小さ
く呼吸をする。目を開けた次の瞬間には、いつもの自分に戻っている自信があった。
「こんにちは」
廊下の先を見ると、見覚えのある傷だらけの机に座って編み物をしている、かつての私
の保護者の顔が見えた。すぐさま訪問者に気がついたのか、彼女は手を止め、顔をこち
らに向けた。そして小走りで近寄り、抱擁を促すかのように彼女は腕を広げた。
「あらあら、ファル。手紙は読ませてもらったわよ。本当に、ありがとう」
「……お久しぶりです。モデストさん」
私は抑制した笑顔でその抱擁を受け入れ、暖かみを声に乗せ、その背中を何度か叩
く。それに合わせて彼女も何度か私の背中を叩いた。それから身体をわずかに離し、見
つめ合う。
「前みたいにマンマって呼んでくれて良いのよ」
「私はもう、子どもではありませんから」
極力冗談めかしてそう答える。それから、さっきより大きく距離をとり、なにかを懐か
しむかのように視線をさまよわせる。その仕草に満足したように、彼女は笑顔で何度か頷
いていた。
「あの……こ、こんにちは」
そんな私の後ろから、リセルシアがおそるおそるといった風に声を掛ける。多分、この
孤児院のあまりの汚さに驚いているんだろう。ここに比べれば、リセルシアが暮らしてい
た孤児院は、天国にさえ見えたかもしれない。ここは、金持ちの道楽で運営されているよ
うな場所ではない。
「あら? ずいぶんかわいい子がパートナーなのね」
「あ……は、はい」
「リセさん、自分で頷いてるよ」
「あ……う……いえ」
「ふふ。でも、実際そうだからね」
一見すると穏やかな空気の中、私は自分に向けられた視線を無視することはできなか
った。ここに住む子どもの、無数の瞳が、私を映している。憧れだろうか? そうは思えな
かった。もっと醜い、妬みがほとんだろう。実際私は、たった一度だけここに来たことの
ある楽団の人間達を、そんな風に見つめていたことがあったからだった。
まだ、昨日の孤児院ならばそんなこともなかっただろう。きちんと一日三食与えられ、
身体を覆うことのできる暖かい毛布が全員の数だけある。たったそれだけのことが、ここ
にいる子ども達には与えられない。
私は、それが嫌でここから逃げ出したこともある。路上で歌い、わずかな金銭を稼いで
暮らしたことさえも。
「……ねえ」
「……ん?」
不意に、私の服の裾を一人の子どもが握った。
「おねえちゃんは、ここからがくいんへ行ったの?」
「……そうだよ」
「すごいんだね」
素朴な、質問だった。八歳くらいだろうか。痩せて、ぼろぼろの服を着て……。
なぜ……そんな風に笑っていられるんだろう? なぜ、そんな目で私を見ることができ
るの? それは、私がもっとも見たくなかった、純粋な憧れだった。
憎めばいい。そんな境遇に自分を陥れた、この世界を。
妬めばいい。自分より幸せで、裕福な者達を。
私は、そうしてここまで来た。常に上を見て、努力をして……。
だから……私にはこの子どもに、次の言葉を言う権利があった。
「君もなれるよ。努力をすれば。一生懸命頑張れば、なんだってできる」
そして、忘れてはいけない。私達のような孤児は、死にものぐるいで何かをしなければ、
なにもできないことを。
「……ファルさん」
リセルシアが、ほとんど涙目になって私の顔を見つめていた。リセルシアはきっと、い
つまでも私の言葉の本当の意味に気づくことはないだろう。今の言葉ほど美しい現実な
ど、どこにも存在しないのだと。
「話もそこまでにしておけ。そろそろ用意を始めろ」
その無感動な声が、今はありがたかった。私はすぐさま返事をし、その子どもに背を向
け、用意を始める。
グラーヴェは、用意された椅子にも座らず、壁に背をつけることもなくそう言った。こ
の孤児院の、どんなものも彼には似合わないだろう。その態度には嫌悪感さえ覚えたが、
私の目指している場所は、つまりそんなところにある。
リセルシアはまだ、さっきの茶番劇の余韻を残しているようで、用意をしながらも時々
私のことをそっとのぞき見ていた。その視線が、さっきの子どもの視線と重なる。どうし
て彼等は、私をここまで不快にさせるんだろう。
「それじゃ、始めましょう」
「は、はい!」
私は、できるだけ椅子に座る子ども達の方を見ないように、リセルシアのことだけを見
つめた。そして、そのフォルテールが美しい音色を奏で始めた。 |